2012-08-27

古代史(邪馬台国)研究会について


現在、会員は私1名(父を含め2名)のみです。私の父が過去に研究していた邪馬台国・宇土説(城南からの展開)を唱えておりましたが、残念ながら文献を残しておりません、わずかに下記のような論文(?)があるでだけです。
しかしながら、せっかくの研究成果を埋没させてしまうのは忍びないですので、父が生存中に伝聞しながら、文書として残していきたいと思います。

「邪馬台国 城南・宇土中心論」 ―日本古代史の最大の謎―



「邪馬台国 城南・宇土中心論」 ―日本古代史の最大の謎―
塩満 雄策


「邪馬台国及び女王卑弥呼」の存在を明確にする為には、次の言葉と歴史観を素通り出来ない。

「歴史は書きかえられる」
この有名な言葉には、大きく分けて二つの意味がある。その一つは、それまで知られていなかった重要な事実が明らかになって、歴史の常識が大きくうち破られる場合である。そのもっともよい例は、古代史でいえば、西アジアやエジプト、つまりオリエントと呼ばれる地域についての十九世紀後半にはじまる研究の成果であろう。

 この荒涼として砂漠と草原の地帯には、王宮の遺跡や記念碑のようなものが残っていて、古い時代に文化の栄えていたことは分かっていたが、それがいつの時代のもので、どのような歴史的意味をもっているかはわからなかった。ところが、岩に浮き彫りされた鳥や人物の絵、粘土版に刻まれた複雑な楔形の文様が、実は文字であったことがわかり、その解説と考古学上の発掘によって、それまで最古の記録とされていた旧約聖書の世界より二千年以上も古い文化の存在が明らかになったのである。

 これは、純学問的研究によって歴史が書きかえられた一例である。歴史が書きかえられるもう一つの場合は、国家や宗教が歴史をどのように利用してきたか、というきびしい問題とかかわってくる。

 歴史をまとめる場合、過去のことを記録しておきたいというすなおな動機も確かにあるだろう。しかし国家や宗教の支配層に属する公の歴史をまとめる場合、そこに自分たちの支配体制を歴史的に肯定しようという意図がしばしば一本の筋となって貫かれている。

つまり、自分たちが君臨しているのは偶然のことではなく、本来、当然そうあるべきだったのだ、ということを自他ともに示したい動機がひそんでいるのである。とすればどうしても、自分たちに都合の悪いことはタブーとしてなるべく書かないし、実際にはなかったことでも書きたくなるであろう。したがって、自分たちに都合の悪い事実を明らかにする者が出ると、世を惑わす者として処罰するといったことも起こってくる。そして、これらの支配体制が変革をうけると、たちまち歴史が書きかえられる。

 このような「歴史」のあり方は、古今東西に共通してみられることで、ここに例をあげるまでもないと思う。しかし、このような「歴史」のあり方を克服したときに、はじめて近代的な文明国になったといえるのではないだろうか。引用は次の通り

  「日本の歴史―」神話から歴史へ  2頁、3頁 
   井上光貞  中央公論社

 以上のことから次の事実が浮彫にされ、邪馬台国及び卑弥呼女王の存在が除々に判明することと思う。

宇土古墳群、塚原古墳群と文献との関連

邪馬台国と卑弥呼女王の問題を古代の失われた政治事件とすれば、その操作法として次の要領が得られる。

一. 物的状況証拠(遺留品的古墳)
二. 証言者(第三者的魏志倭人伝)
三. 政治犯の自白(古事記等)

一は判定等の問題、二は記憶の問題及び解釈の問題、三は犯人の利害上の虚実が含まれた問題等があり、その実を捜さねばならないが、幸いに先学の多大の人々、史学者、考古学者又は関係者によって究明されているので、これら学問の要点をたぐれば次第に宇土古墳群、塚原古墳群と邪馬台国の位置が重なってくる。

 宇土市、城南町と魏志倭人伝の関連で、次の学説は方位及び工程の点で最も妥当な学説である。白鳥氏の高弟榎木一雄氏は、1948年(昭和23年)に、はなはだ明快な回答をくだした。それは次のような、魏志倭人伝の記事の新しい読み方を前提とする画期的なものであった。

帯方郡から伊都国にいたる旅程を示した記事は、いままでのように、壱岐国―末慮国―伊都国―奴国―不弥国―投馬国―邪馬台国と順次式に読むべきではなく、郡使が駐在した伊都国からあとは、そこから奴国には百里、伊都国から不弥国には百里、伊都国から投馬国へは二十日、伊都国から邪馬台国へは水行十日、陸行なら一月と「斜行式」に読むべきである。

なぜなら、倭人伝のその箇所の記事を読むと、前半では「南に一海を渡り千余里で一支国に至る」(244頁9行目)というように方角、距離、国名の順に記されているが、伊都国からあとは「東南、奴国に至るには百里(215頁1行目)と云うように方角、国名、距離の順になっている。それは伊都を中心に書きわけているからである。

そして、こうしてみると邪馬台国は伊都国の南、水行十日、陸行一月という、ずっと近い距離である。そして榎氏は倭人伝には、(d)郡から女王国に至る一万二千里(215頁21行目)とあるが、いま(a)の記事の帯方郡から伊都国までのそれぞれの距離の合計を(d)の一万二千里から引くと、ちょうど千五百里の数値がえられる。

この数値は、対馬と壱岐の間を千里としてあるその一倍半だが、伊都国からそれだけの長さを地図上に伸ばすと、ちょうど筑後の山間郡あたりになる。さらに、「水行十日、陸行一月」の一月という数値は、実は千五百里をもとに割り出した机上の計算の結果であろう。

中国では一日の歩行は五十里(約2.4㎞)という思想があったが千五百里を五十里で割れば三十日となるからだ。そしてまた、水行十日とうのは実際の日数なのであり、博多から船で、松浦半島、西彼杵(そのき)半島など長崎県を迂回して有明海から筑後川の南の山門郡に到達するには十日かかるであろう。

 この榎学説は、九州説の弱点であった旅程問題にたいする一つの見事な解釈であった。最近、邪馬台国問題と真正面から取り組んでいる京都大学の法制史家牧健二氏も基本的にはこれを継承している。  

井上光貞著 235頁より「日本の歴史―」

神話から歴史へ
以上の学説から筑後の山門を、熊本県の宇土・城南としても全工程の一万二千里からすればわずかの誤差にしかならず可能である。

 そこで此の事を実証する物質的史的な資料を提出するならば、

 第一に 宇土古墳群及び史的位置
 第二に 塚原古墳群との関連性
 第三に その他九州に於ける古墳

・・・・・(以下、省略)

本稿は昭和49年3月28日、熊本市グランドホテルで「東アジアの古代文化を考える会」が催された時、その会の事務局長 鈴木武樹氏へ提出されたものを、一部修正(下線部を追加、数カ所段落入)抜粋したものである。

著者は昭和6年生まれの80歳となっており、過去に研究した邪馬台国の記憶も薄れており、今後本人に尋ね記憶を引き出しながら追記していく予定です。